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大阪地方裁判所 昭和61年(ワ)11972号 判決 1988年1月28日

原告

野間さとみ

被告

渡瀬猛

ほか一名

主文

原告の各請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは各自原告に対し、金六一七万三〇七〇円及びこれに対する昭和六一年八月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  事故の発生

被告渡瀬は、昭和六一年八月二一日午前零時一七分ころ、普通乗用自動車(神戸五五う六四六〇号、以下「渡瀬車」という。)に原告を同乗させ、これを運転して兵庫県伊丹市西台五丁目六六番地先路上を進行中、右道路を横断していた訴外林逸郎に自車を衝突させた(以下「本件事故」という。)。

2  責任

被告渡瀬は、自車に原告を同乗させて前記道路を時速約五〇キロメートルの速度で南進していたのであるから、前方及び左右を注視し、進路の安全を確認して自車を進行させ、右道路を横断する歩行者との衝突を未然に防止すべき注意義務があつたものである。しかるに、同被告は、遠方の信号機に気を奪われ、進路の安全不確認のまま漫然と前記速度で自車を進行させた過失により、前方道路を右から左に横断歩行中の訴外林逸郎に自車を衝突させて本件事故を発生させたものである。したがつて、同被告は、民法七〇九条に基づき、原告が本件事故により被つた後記損害を賠償する責任がある。

また、被告協和タクシー株式会社(以下「被告会社」という。)は、自己の被用者である被告渡瀬が被告会社の業務を執行中に前記過失によつて本件事故を発生させたものであるから、民法七一五条一項に基づき、原告が本件事故により被つた後記損害を賠償する責任がある。

3  原告の受傷、治療経過、後遺障害

原告は、本件事故により頸部挫傷の傷害を受け、昭和六一年八月二一日から同年一〇月三日まで(実日数一〇日)宮宗病院に通院して治療を受けた。しかし、原告の右傷害は、結局完治せず、昭和六二年四月二日、頸部・頭部痛等の後遺障害を残存させてその症状が固定するに至つた。原告の右後遺障害は、自動車損害賠償保障法施行令二条別表後遺障害別等級表(以下「等級表」という。)第一四級一〇号(「局部に神経症状を残すもの」)に該当する。

4  損害

(一) 治療費 金一万二六七〇円

原告は、前記宮宗病院における治療費として金一万二六七〇円を支出した。

(二) 休業損害 金一三万四四〇〇円

原告は、本件事故当時二五歳の健康な女子で、飲食店(お好み焼屋)を経営し、本件事故当時少なくとも一日当たり金九六〇〇円の純利益をあげていた。しかるに、原告は、本件事故により受傷したため、昭和六一年八月二一日から同年一〇月三日までの一四日間その営業を停止せざるを得ず、一日当たり金九六〇〇円、合計一三万四四〇〇円の得べかりし利益を失つた。

(三) 営業廃止による損害 金四二四万七〇〇〇円

原告は、右営業の開業資金として、店舗内装費二五四万七〇〇〇円、店舗賃借による保証金及び権利金二五〇万円、合計五〇四万七〇〇〇円を投下していたところ、本件事故による受傷のためその営業を継続することが不可能となつて結局その営業を廃止した。そのため、右投下資本のうち金八〇万円の保証金の回収をしただけで、その余の金四二四万七〇〇〇円が回収できなくなり、同額の損害を被つた。

(四) 後遺障害による逸失利益 金二六万七〇〇〇円

原告の後遺障害の内容・程度は前記のとおりであるから、原告の後遺障害による労働能力喪失率は五パーセント、労働能力喪失期間は二年間である。そして、原告の本件事故当時の収益は前記のとおり一日当たり金九六〇〇円を下ることなく、年間少なくとも三〇〇日は稼働していたから、右の二年間に原告が失うことになる収益総額からライプニツツ式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して後遺障害による逸失利益の症状固定時における現価を求めると、その額は金二六万七〇〇〇円となる。

(五) 慰謝料 金一〇一万二〇〇〇円

原告が本件事故により受けた傷害の内容・程度その他諸般の事情に照らせば、原告が本件事故により被つた精神的・肉体的苦痛を慰謝するに足りる慰謝料の額は、金一〇一万二〇〇〇円が相当である。

(六) 弁護士費用 金五〇万円

原告は、本訴の提記及び追行を原告訴訟代理人に委任し、その費用及び報酬として金五〇万円の支払を約した。

5  結論

よつて、原告は被告らに対し、各金六一七万三〇七〇円の損害賠償金及びこれに対する不法行為の日である昭和六一年八月二一日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1の事実は認める。

2  同2の事実中、被告会社の責任原因に関する事実は認める。

3  同3の事実中、原告が本件事故によりその主張のような傷害を受け、後遺障害が残存したことは否認する。

(一) そもそも、車両の軽微な衝突事故によつてその乗員が受傷するのは、衝突により乗員の上体が慣性の法則に従つた動きをして車内の装置と衝突したり、乗員の頸部が生理的な可動範囲を超えた動きを強制される場合であり、乗員が静止した姿勢のままでいて、ただ力んだくらいでその頸部の組織や神経を損傷することはあり得ない。これを、走行中の車両がその前方にある障害物に衝突する場合についていえば、車両が急激に減速するため、乗員の上体は前方に倒れ、後部座席の乗員は前方の座席背部で身体を打撲し、その際、頭部顔面を打ちつければ頸部が過度に後屈し、両肩・胸などを前席の背もたれに打ちつけて更に頭が前方に傾いて頸部が過度に前屈する可能性があるのである。ところが、本件において、原告は、渡瀬車の後部座席に乗車していたところ、被告渡瀬が急ブレーキをかける前に前方道路を右から左に横断していた訴外林を発見し、衝突の危険を感じて前部座席の枕の支柱か背もたれにつかまつて身構え、そのまま正常な姿勢を衝突の時まで維持し、衝突後下を向いたものであり、この間、頭部を前部座席に打ちつけたこともなく、渡瀬車の構造からしても、ヘツドレストと渡瀬車の天井には原告の頭頸部が振り子のように回転するスペースもなかつた。したがつて、原告が急ブレーキや衝突によつて肩や胸を前部座席背もたれに打ちつけ、更に頭部が前方に振られて頭部を前屈させる運動を強いられるようなことはなかつたものである。

(二) また、渡瀬車は、衝突時急ブレーキをかけているが、これによる加速度は〇・六ないし〇・七Gである。そして、衝突によつて渡瀬車に加わる加速度は、次のとおり〇・二八Gとなる。すなわち、衝突前後の運動量は不変なので、車の重量M1kg=1,280kg+60kg×3人(乗員)、車の衝突前の速度V10km/h=50km/h、車の衝突後の速度V1km/h、歩行者の重量M2kg=60kg、歩行者の南北(対向)方向へ衝突前速度V20km/h=0km/h、歩行者の南北方向への衝突後速度V2km/hとすると、M1V10+M2V20=M1-V1+M2-V2―(1)となる。他方、反発係数は、file_2.jpg―(2)となるが、本件のように、人と車の衝突の場合は、θ=0となる。そこで、衝突後の速度V1を(1)(2)の式に各値をあてはめて計算すると、V1=V2,file_3.jpgとなり、本件衝突によつて車が48.03km/h-50km/h=-1.97km/h加速されたことになる。そして、加速度aは時間当たりの速度変化であるので、file_4.jpg—Vm_sec ‘. weeとなり、衝突持続時間は約〇・二秒であるから、本件衝突による加速度は、a=1.97×1000/3600÷0.2=2.74m/sec2で、これを加速度単位Gに換算すると、2.74×1/9.8=0.28Gとなる。ところで、人の頸部は、弛緩状態で、車体加速度が五ないし六G位になるといわゆる鞭打症発生の可能性があるが、三ないし四G位ではまず受傷は考え難く、一ないし二G位では全く受傷しない。しかも、被害者が衝突を予測して身構え、頸部の筋を緊張させると、頭部に働く加速度は三分の一程度にまで減少させ得る。この観点からも、原告が本件事故により受傷することはあり得ないのである。

(三) 宮宗病院における原告に対してなされた診断及び診療は、専ら原告の主訴のみに基づくもので、何ら他覚的所見の認められないものであるうえ、原告の訴えをみても、宮宗病院において原告の顔色は悪くなかつたと認められているのと符合せず、右病院において何らの訴えもなかつたのにその後症状があるといい出したものが多いのである。

(四) 原告には虚言的傾向がある。

以上の諸点からみれば、原告が本件事故によりその主張のような傷害を受けたものでないことは明らかである。

4  同4の事実は否認する。

三  抗弁(損害の填補)

原告は、渡瀬車の自動車損害賠償責任保険から金一七万四五三〇円の支払を受けた。

四  抗弁に対する認否

抗弁事実は認める。

第三証拠

本件記録中の書証及び証人等目録記載のとおりであるからこれを引用する。

理由

一  原告は、本件事故により頸部挫傷の傷害を受けた旨主張し、被告らはこれを争うので、まずこの点につき判断する。

本件事故の発生は当事者間に争いがなく、原本の存在及び成立に争いのない乙第一号証の四ないし九、一一、被告渡瀬本人の尋問の結果により真正に成立したものと認められる同第二号証によれば、被告渡瀬は、時速約五〇キロメートルの速度で自車を運転して前記道路を南進していたところ、前方約一六・六メートルの道路を右から左に歩いて横断していた訴外林を発見し、急ブレーキを踏んだが間に合わず、約一四・三メートル南進した地点で自車の左前部を同訴外人に衝突させ、右衝突地点から約八・五メートル南進して停止したこと、渡瀬車は、本件事故により左前バンパー凹損、左前前照灯破損、左前ボンネツト曲損等の損傷を受けたこと、訴外林は、右衝突地点の左前方約六・四メートルの地点に転倒しており、本件事故によつて二か月以上の入院加療を要する脳挫傷、硬膜下血腫、腹腔内出血、骨盤骨折、膀胱破裂、尿道損傷の傷害を受けたことが認められ、成立に争いのない甲第一、第二号証、乙第一一ないし第一三号証、原告本人尋問の結果によれば、原告は、本件事故当日である昭和六一年八月二一日、頸部痛、嘔気を訴えて宮宗病院を訪れたところ、頸部挫傷と診断され、同日から同年一〇月三日まで(実日数一〇日)通院して治療を受けたこと、同病院の主治医は、原告が頸部挫傷の傷害を受けたことを前提として、昭和六二年四月二日、同日をもつて原告の症状が固定し、頭部・頸部痛を残すことになつた旨の後遺症診断をしていることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。右の事実によれば、原告は、本件事故によつてその主張のような傷害を被つたものと推認することができるかの如くである。

二  しかし、他方前掲乙第一号証の九、第二号証、原告及び被告渡瀬の各本人尋問の結果によれば、本件事故当時の状況として次の事実が認められ、右認定を左右し得るような証拠は存在しない。

1  原告は、本件事故当時後部座席右側に乗車していたが、事故前前記道路を横断していた訴外林を発見し、衝突の危険を感じて前部座席のヘツドレストの支柱か背もたれをつかんだところ、そののちに被告渡瀬が急ブレーキをかけた。

2  原告は、横断中の訴外林を発見してから本件事故により同訴外人が左方へはね飛ばされるまで目撃しており、そののち下を向いた。

3  この間、原告は、その頭部を渡瀬車の前部座席等に打ちつけるようなことはなかつた。

4  被告渡瀬は、本件事故直後原告に異常がないかどうか尋ねたところ、原告は異常がない旨答えた。

5  本件事故当時、渡瀬車には後部左座席に男性客が乗つていたが、同人及び被告渡瀬は本件事故により何らの傷害を受けなかつた。

そして、本件においては、原告が本件事故時頸部を激しく前後に振られたことを認めうるような証拠は存在しない。

三  また、本件事故により渡瀬車にどの程度の加速度が加わつたかに関し、

1  弁論の全趣旨及びこれにより真正に成立したものと認められる乙第四号証によれば、車両が急ブレーキをかけたことによる加速度はおよそ〇・六ないし〇・七Gであることが認められ、

2  原本の存在及び成立に争いのない乙第一号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第五ないし第八号証によれば、車両の衝突前後の運動量は不変であること、渡瀬車のみの重量は一二八〇キログラムであること、本件のように人と車の衝突の場合は、反発係数は零となること、衝突持続時間はせいぜい約〇・二秒であること、本件事故における衝突によつて渡瀬車に加わる加速度は、被告らが主張するような算式によつて求められることが認められ、渡瀬車の衝突前の速度が時速約五〇キロメートルで、その乗員が三人であつたこと、訴外林は前記道路を右から左に横断していて渡瀬車に衝突されたことは前記のとおりであり、人間の体重が平均するとおよそ六〇キログラムであることは経験則上明らかであるから、本件事故における衝突によつて渡瀬車に加わる加速度は、被告らが主張する〇・二八G程度のものと認められる。

3  してみれば、本件事故により渡瀬車にどの程度の加速度が加わつたかを工学の見地からみる限り、その程度はかなり低く、原告が頸部挫傷の傷害を受ける可能性はその確率が極めて低いものであると認められる。

四  更に、前掲甲第一、第二号証、乙第一一ないし第一三号証によれば、原告の症状は、ただ頭痛及び頸部痛、嘔気を訴えるだけで、頸椎レントゲン検査、脳波検査、脳神経学的検査上異常はなく、頸部の運動制限や頸部等の圧痛や筋緊張すら全く認められず、顔色もほぼ正常であつたこと、宮宗病院における診断は、原告の症状が右のようなものであつたのに専ら原告の主訴のみに基づいてなされたものであり、同病院においてなされた治療は、薬物・湿布・牽引療法だけであつたこと、同病院においてなされた後遺症診断は、原告の症状が右のようなものであるうえ、前回の通院から六か月も経過したのち訪れた原告に対しその日を症状固定日として診断がなされたものであることが認められ、右認定を左右しうるような証拠は存在しない。

五  右二ないし四の事業によれば、本件事故は、原告が乗車していた渡瀬車が前方道路を横断中の人をはねたという事案であるところ、原告は、衝突及び急制動前被害車を発見して前部座席のヘツドレストの支柱か背もたれをつかんで身構えていて、原告が本件事故当時頭部を渡瀬車の車内装置に打ちつけたり、頭部を前後に激しく振られたようなことはなく、渡瀬車に加えられた加速度も極めて程度の低いものであるうえ、医学的にも全く他覚的所見が認められなかつたものであつて、これらの点に照らせば、前記一の事実から原告が本件事故によつてその主張のような傷害を被つたものと推認することはできないものである。そして、他に原告が本件事故によつて右傷害を被つたことを推認するだけの証拠は存在しない。

六  そうすると、原告の本訴各請求は、その余の点につき判断するまでもなく理由がないことに帰するから、いずれもこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 山下満)

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